水師営の別館

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自己責任社会への疑問

奨学金を返せない若者

大学生活を送る皆さんはお金をどのように工面しているだろうか。親が学費や生活費を出してくれる家もあるだろう。しかし、必ずしも親の援助で学生生活が成立していないのが現実だ。今や学生の半数以上が奨学金という名の借金をしており、学費だけは出してもらうも、生活費や交遊費などは月6~7万円の奨学金とバイトで賄うという学生は珍しくないはずだ。


借金である以上、後に返済することが約束である。事前の説明会でも返済を厳命されたであろう。ところが社会人になってから、返済能力を持てずに行き詰まり「自己破産」する若者が増えているというのだ。ローンが困難になったり、財産没収されたりなどのペナルティは仕方ないことだが、しばしばそんな彼らは「自己責任」という言葉で非難されがちである。


使い勝手のいい「自己責任」

彼らは「借金と分かっていたのに返済できなかったのだから自分が悪い」と言われる。ごもっともという気もするが「自己責任」という言葉で済むのかとも考えてしまう。今回は奨学金制度そのものというより、この「自己責任」という言葉の持つ危うさといい加減さについて述べようと思う。


自己責任なんだから自分の判断に責任を持てと言うが、世の中そう個人の意思だけで決まるものでもない。周囲の助言や世間の風潮、見聞きした情報に流されることだってある。また突然の予期せぬ事態だって人生には起こることもある。確率の低い結果の責任までも個人に負わせるのは酷なことではないだろうか。自己責任の示す範囲が際限なく広がるのは言葉の濫用だろう。


チャレンジを奪う悪しき言葉

「自己責任だ」と言うのは簡単だがそれでは問題解決につながらない。冒頭で述べた奨学金だってそうだ。借金したお前が悪いでオシマイにするより、高校の進路指導や機構と交わした月々の借金額の妥当さにも目を向けるべきであろう。また返済不能になる可能性や伸び悩む賃金体系についても考えるべきである。そもそも学費が高いのではと問題提起することもアリだ。


したがって、自己責任という非難は、この言葉を振りかざす人が望まぬ結果を再現するだけだ。そこまで非難したいなら「自己責任」という無責任なフレーズを避けるべきだろう。他人の失敗に無慈悲な社会がこのまま続けば無難に、安全に行こうという意識だけが醸成されるに違いない。それは個人の挑戦する意欲を妨げ、困難な環境から脱却する意欲も妨げる諦念の元凶だ。


自己責任そして努力という問題

ところがそれでも非難する人はいくつかの論点より、自己責任を強調する。そこで現れるのが「努力」だ。「私も苦学生だったが返済した」だの「就職難の中でも私は返済できた」と反論するのは予想できる。しかし学費と物価の関係や経済状況を無視した過去の成功潭は参考にはならないし、問題解決のための普遍的な制度問題にレアケースを持ち出すのはナンセンスだ。


再度奨学金を例にしたが「自己責任」と「努力」の関係は密接であり、ある種の「努力神話」が残る我が国では自己責任への異議は困難が伴うだろう。努力は確かに良き気概だが可視化できない。そのため努力したかどうかは他人の恣意的な判断に委ねるしかない。さらに「努力したね」と称賛を受けるのは結果を出した人になりがちだ。だがこれは成果主義に近い。結果と努力が結び付くこともあれば、偶然や環境のよさが結果に結びつくこともある。


自己責任や努力を唱える人は多いが、そんな彼らもこれらの要素よりも、偶然や助け合い、支え合い、守り合いといった環境の恩恵に預かっているのではないだろうか。にもかかわらず他人の不幸には「自己責任」では都合がよすぎる。人生を困らないようにすることが一番だが、それでも困ってしまうことはある。その時に「自己責任」と切り捨てるか「話を聞こうか」と差しのべるか、どちらが道義ある国家として相応しい国民の態度が今一度考えてみてほしい。