水師営の別館

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【陣風賦】H30.7.27「鳴り物応援の自粛」

先週末に行われた首位広島と2位巨人の3連戦は巨人の3連敗に終わった。自力優勝消滅という厳しい結果を突きつけられたが、とにかく実力がなかった。特に終盤での同じような失点を繰り返した中継ぎ陣の弱さが露呈した。この弱さを悔やんでも実力不足に尽きるのだが、もう一つこの3連戦になかったものがある。それは「鳴り物応援」であった。


▼事の発端は広島側の応援団のメンバーがSNS上で提案したことのようだが、その時点で球団やNPBから要請されたわけではない。結局は応援団の「忖度」ないしは「自主規制」にすぎない。巨人側もこれに合わせて鳴り物のない応援を行ったが、鳴り物自粛の意味とは何だったのだろうと改めて考えさせられる。


▼ラッパや太鼓は確かになかった。しかし笛は使ったし、7回にはジェット風船を飛ばした。バット型メガホンも控えてほしいとのツイートだったが、内野席のファンは普通に叩いていた。この自粛、何が良くて、何がダメなのか基準が曖昧なまま終わってしまったことに釈然としない気持ちが残る。


▼追悼のための鳴り物自粛という割には矛盾のある実態であったし、その因果関係に納得のゆく説明もいまだない。騒がしいから止めようというのなら、そもそも試合を行うこと自体が騒がしいのだからこれもまた論理的とは言えない。


▼しかし人間とは論理や理性だけで生きているわけではない。情に流され、愛に燃える生き物である。とはいえ高度に発達した社会生活をその「気持ち」で運用させることには少々無理があるのではないだろうか。試合という興行が、野球場に集うあらゆる人の意思が、一人または数人の「何気ない感情」である意味定められたことへの違和感は拭えない。


▼被災地や被災者の現状を思っての配慮なのか、それとも「苦情をつけられたら嫌だなあ」という不安への配慮なのか、その違いは大きい。無頓着であれとは決して思わないが、過剰な配慮や気遣いは悪しき前例として後に影響を与える。自分の言動が必ずしも自分の責任や範囲で完結するとは限らないことを心に深く刻んでおきたい。