水師営の別館

Twitterで呟ききれなかったことや最近気になったことを書くブログです。

【陣風賦】H30.6.3

中曽根康弘元首相が先月27日に100歳の誕生日を迎えた。首相経験者で100歳を迎えるのは、終戦直後に就任した東久邇宮稔彦王以来2人目だ。政界引退後も生涯現役をモットーに、旺盛な活動を続ける「大勲位」の姿はまさに「人生100年時代」のあり方を考えさせられる。


▼仮に60歳で定年を迎えても、残り人生が40年もあるということだ。定年延長や再雇用でまだまだ働くという人もいれば余生を楽しみたい人もいるだろう。いずれにせよ、何か目的を持って生きていかなければならないほどの長い時間があると、特に若い我々世代は認識しなければならない。


▼仕事よりプライベート優先と我々世代は言われる。したがって老後も趣味やこれまでの繋がりを生かし、長い長い第2の人生も楽しめるはずであろう。しかし雇用が不安定化し、少子高齢化の進む社会なだけに否応なしに働かされる未来が到来するかもと思うと不安にもなる。


▼仕事はあくまでも生活の糧を得るためと割り切っている人にとっては「生涯現役それも労働者として」というのは不本意な未来だろう。社会保障費抑制と生産世代減少に対応するために、政府は生涯現役路線を推進しているようだが、果たしてそれが成功するかは未知数だ。


▼働かせるにせよ、余生を楽しむにせよ元気な老人でなければそれはできない。現在、平均寿命と健康寿命の差は10年以上の開きがある。これを縮めることこそがまさに人生100年時代の課題だ。病院のお世話にならないことは社会保障費の抑制にもなる。


▼中曽根元首相は健康の秘訣として規則正しい生活習慣に加え「飽くなき探求心と知的好奇心」を挙げた。サラリーマン生活を過ごしているとどうしてもその職場だけが自分の世界となってしまう。そうならないよう常に外界との接触を持ちつつ、知識を深め、いつまでも頭の中だけはアップデートし続けるつもりだ。

【陣風賦】H30.5.30 「やりがいのリスク」

社会現象にもなった人気ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の中でヒロインが述べた「やりがい搾取」は昨今の日本が抱える問題を指摘する言葉ではないだろうか。


東京五輪を2年後に控え、五輪ボランティアについて検討が行われた。募集案があまりにも「ブラック」過ぎると批判が殺到した中で示された対案が「やりがいのPR」であったことに批判がさらに集まった。


▼「これからやりがいをアピールするために使うお金があるのならボランティア参加者にお金を回せ」という批判の声はごもっともだ。やりがいをPRするための宣伝や広告には多額のお金が使われるのだからやるせない気持ちになる。


▼もちろんボランティアであるから金銭という対価が支払われる労働ではない。しかしながら肉体的、金銭的負担の大きい現状を少しでも改善しようとせず、各人の精神力で何とかしようとする点に社会の貧しさが現れているように思う。


▼仕事や作業の要求基準はそのままに、正当な評価が下されず、その後の処遇が悪化するところにやりがい搾取の問題点がある。また達成感や充足感で過酷な環境をごまかすことも問題だ。自分はたとえそれで良くとも、次にその活動に従事する後任者の存在を思うとやりがいを物事の基準にすることはやはり危険だ。


▼つまりやりがいだけでは物事が持続しないのだ。五輪ボランティアがやりがい搾取で失敗してしまえば、ボランティアという概念自体にネガティブな印象がつきまとい人々が集まらなくなる。やりがいをアピールし続けた業界が人手不足の真っ只中にいるのはいい例だろう。


▼長引くデフレ経済の中で、対価を支払うという感覚が壊れてしまった結果の一つがやりがい搾取なのかもしれない。コストカット、経費削減ばかりに意識を取られた四半世紀の集大成としての五輪にならないことを私は願う。

【陣風賦】H30.5.27「不思議な世界の危機管理」

まさか彼女が… 国民的アイドルグループの人気メンバーに出たスキャンダルに多くのファンがそう感じたであろう。控え目で、大人しい性格という印象は一夜にして壊されてしまった。


▼報道から1週間、世間を騒がせるかと思いきや、世間は日大アメフト問題に関心を寄せている。まさに彼女にとって天祐か、炎上する気配は全くないようだ。一方は杜撰な危機管理で世論の批判の的となっているが、そうすることこそが一番の危機管理になっている世界もあるのだから不思議だ。


▼恋愛禁止というお題目の如何を論じても仕方がない。「守るべきだが、仮に破るとしても隠し通してほしい 、それが責任だ」という意見に収斂されるからだ。何よりも不信感を抱くのは何事もなかったようにだんまりして、平然と日常を演じていることだ。


▼このまましらを切り通せば乗りきれるという計算が見え隠れしているようでならない。見え透いた嘘で沈黙すればするほど問題が拡大するというのが世の常である。お得意の黙殺がいつまでも力を発揮すると思わないのが賢明だ。


▼もはや従来の関係性は成立しなくなった。それでもなお「信じる」だの「支える」だの表明するファンもいるが、滑稽でならない。そもそもファンはあくまでも幻影を享受することしかできない立場だ。それを一緒になって虚像を作り出すことに勤しむというのは本然をわきまえない姿である。


▼無理をして、共犯してまで虚構を形成しては、それは「信者」も同然だ。虚しさと自己正当の言い訳ばかり残ってしまえばお金と時間の無駄である。盲信することがファンの証しになるわけではない。経済的に、精神的に自分は無理をしてないか、各人で今一度見つめ直すべきではないだろうか。

コラムを書き始めます!

はじめに

日々の生き甲斐、楽しみを作るためにこれまで書いてきたブログよりも短い、いわばコラム的な文章をこまめに書くことにしました。1600字程度書いてきた従来のブログを仕上げるのは時間もかかり、ブログは放置した状態でした。これからはその半分以下で構成された文章を書くことにして、日々の雑感、所感といったものを表現したいと考えています。


コラム名は「陣風賦」にしました。これはある新聞社が一時期名付けたコラム名をヒントにしたものです。陣風すなわち「急に激しく吹く風」を時に追い風に、時に向かい風にしながら生きていく中で「賦=率直に感じたことを叙述した文章」を書きたいと思い、この言葉を選びました。


本日はその紹介とし、明日はコラムを掲載します。不定期ではありますがなるべく頻度を高めて書いていきたいと考えております。

サヨナラ、サヨナラ…

最も美しい言葉の一つ

戦前、巧みな弁舌を駆使し、世界を相手にした政治家がいた。その男は松岡洋右といい、彼は「国際連盟脱退」と「日独伊三国同盟締結」という日本外交史における重要人物の一人である。その彼は、国際連盟脱退の演説で「サヨナラ!」と言って退席した話が有名だが、これは誤りである。


その事実は、昭和8年に訪問先のカリフォルニアから彼が全米にラジオ演説をした際に使われた言葉だ。彼はラジオ演説の終わりに

“Allow me to say good-bye to you in Japanese. The word that we use in saying farewell to a friend is one of the most beautifull in our language. I say it to you- SAYONARA.”

と述べたことが真相だ。青春時代を米国で過ごした松岡が、雲と霧が立ち込む日米関係を前に語ったこの「サヨナラ」にはどんな意味が込められていたのだろうか。若き日に苦々しい経験を重ねた米国への決意でもあり、自らのアイデンティティを形成した第二の母国への名残惜しさでもあるのだろう。


サヨナラを告げるとき、我々は割り切れない気持ちでいっぱいではないだろうか。一言では語りきれない感情をこの一言に込める。それが「サヨナラ」であろう。私も今また、卒業そして就職に際し、決意と名残惜しさをもって、この美しい言葉を言おうと思う。


人に恵まれた4年間

大学に入ったとき、これほどにまで別れを惜しめる友達と出会えるとは思いもしなかった。同じような趣味や価値観を共有する仲間と過ごせたことは幸せであったし、飲み会好き、旅行好きという環境は友好を深める最高の条件であった。その結果、仲間割れや喧嘩ということは一切なく、卒業式の日を迎えることができた。


2人や5人などの間ではなく、10人以上の集団で、この友情が成立したのだからその意義は深い。もちろん卒業後も「また集まろう」と誓ったが、何気ない日々の飲み会や会話がもうできなくなると思うと寂しさと喪失感でいっぱいである。飲み会は社会に出てからもあるだろう、しかし、心置きなく、誰かに遠慮することなく食事や会話を楽しめる場はきっとないだろう。


往生際の悪い私

飲み会は数え切れないほど繰り返したし、旅行や合宿、花見やバーベキューといった定期的なイベントも年に何回もした。そのためあれをすればよかった、ああしておけばよかったという悔悟の念はない。ただ毎年の積み重ねがもうなくなるだけに、私は今日までの日々を振り返りたくなるのである。


「本当の最後の日」に名残惜しさをこうして書くのも、往生際の悪さの現れであろう。さっぱりとした気持ちになれるほどできた人間ではないことの証左だ。したがって、私はこの4年間から敢然と決別することはできない。私が美しい言葉をもって別れを告げるべきは友でも、4年間の思い出でもないと確信している。告げるべき相手は私自身に内在する「恐れ」なのだと…

私は昨日までを抱えたまま新しい第一歩を踏み出す。
「サヨナラ!我が恐れ!」と