水師営の別館

Twitterで呟ききれなかったことや最近気になったことを書くブログです。

【陣風賦】H30.7.21「酷暑に思う」

猛暑というより酷暑だ。そう思わせる7月の暑さだ。各地で猛暑日の35℃を越す気温を記録し、亜熱帯の国・日本と言う他ない。屋外で仕事や活動をする人は日陰で適宜休憩し、水分と塩分の補給は欠かせない。そして室内でいる人はエアコンを使いこの高温多湿から身を守るしかない。ところがこの暑さをめぐり不思議な対応が見られる。


▼一つは教育現場での動きだ。エアコンは子供をダメにする、エアコンは贅沢品だ、エアコンはあるけど止めるなど、涼しさを敵視する人が少なからず存在する。空調がなく汗水垂らしながら勉強したおじさん、おばさんが立派な大人になったかを思うと根拠のない精神論に過ぎず、エアコンは生活必需品である。


▼そもそもこの暑さに対する無神経さが目立つ。この炎天下に校外学習を企画したり、10代の子供に身合わぬ部活の練習をさせたり、空調も空気の循環もない体育館で集会を行ったりなど、リスクを考慮しない判断が多い。日焼け止めやサングラスなど、暑さがもたらす二次的被害への対策にも腰が重いのも気になる。


▼確かにエアコンという観点から言えば一学校では解決できない財政的問題もあろうが、根本的に暑さへの理解が足らないから熱中症やおかしな対応が頻発しているのではないか。想像力の欠如には呆れてしまうが、もし自分たちの少年少女時代の経験を根拠にするなら、そんな非科学的な自信で現在の子供たちを危機に追い込まないでほしい。


▼そして社会全体に言えるのが「冷房の28℃設定」への信仰を捨てることだ。室温が28℃になるように努めるのが本来の趣旨だが、今やかけ離れた意味だけが一人歩きしている。気温の他に湿度、空間の広さ、そこにいる人数などの様々な条件に応じて設定されるべきであり、単にぬるい風を送るだけでは冷房ではない。


▼「しんどい思いをすることは重要だ」「自分たちはこうだったから」「一度決めたことはその中身を問わず最後まで守る」という魂胆があるのなら、これは悪い習慣だ。この精神は暑さだけでなく、あらゆる分野にて今もなお発揮されている。人一人が死んでから行動を起こすのでは遅い。暑さ対策にもっと熱中しよう。

【陣風賦】H30.7.13「若手社員と飲み会」

先日、Twitterにて「あなたは職場の飲み会は好きですか?」というアンケートを行った。その結果、3分の2近くが「嫌い」と回答した。何かと気を使う役割を負わされる若い世代がフォロワーに多いことを反映した数字であろう。この数字から分かるように「職場の飲み会」は若者にとって望まれない行事なのだ。


▼なぜ職場の飲み会は若者から敬遠されるのか、これは「精神的、時間的、経済的苦痛」が重なるからだろう。お酌を強いられる、取り分けを強いられるという苦痛、終業後のプライベートな時間が削られるという苦痛、楽しくもない飲み食いにお金を払うという苦痛などまさに三重苦の環境である。


▼「ゆとり世代」と批判するのは簡単なことだ。しかし社会情勢も雇用を取り巻く環境も変化した。価値観も非常に多様化している。その中で平成も終わろうとする時代に、旧態依然とした縦社会を基軸とする世界観の因習が支持されるとは到底信じられないのだ。


▼給仕係でも、介護職員でも、水商売のお姉ちゃんでもない、食事くらい自分でやるべきだ。日々の感謝があるなら食事を通した会話で十分ではないだろうか。そうした陋習、過剰な気配りの連鎖が忖度を生み、閉鎖的な職場環境を生むのではないだろうか。


▼そもそも若い世代は会社や職場に深い思い入れがない。年功序列や終身雇用が絶対なものと信じていない。仕事人間、職場こそが居場所という人生設計にも否定的だ。あくまで生活の糧を得るための手段としか認識していないのだから、関心の薄いおじさん相手に過剰な気配りをすることは、コスパの悪い、無駄な行動と捉えるのも当然のことである。


▼私情が今回のコラムでは強く入ってしまったが、同じように不満を覚える同世代の同志は多いはずだ。そして中堅社員から「新人はかくあるべき」と教え込まれた人もいるはずだ。しかし私は読者の皆さんに望みたい。どうかあなたにはこの中堅社員が行う「指導」を繰り返さないでほしい。自分がされて嫌だったことを下に押しつけないでほしい。一人ひとりがこの悪習に立ち向かう「防波堤」として存在することを心から願う。

【陣風賦】H30.7.2

働き方改革関連法案が参議院本会議で可決された。安倍首相は本法案の成立を受け「70年ぶりの大改革」とコメントを残した。残業時間の上限設定や同一労働同一賃金に向けた取り組み強化などの規制強化を進めた一方で、野党から厳しい批判にさらされた「高度プロフェッショナル制度(以下高プロ)」もまた成立した。


▼「高プロ」で自由で柔軟な働き方を促進するとの触れ込みであるが、残念ながらそれは実現しないだろうというのが私の見方だ。そもそも多くの日本人労働者が個人の裁量や配分を与えられて働いているかという疑問がある。働けば働くほど次の仕事が追加され、自分のペースで働こうものなら嫌味を言われるのが多くの職場で見られる姿ではないだろうか。


▼名前ばかりプロフェッショナルと認定され酷使されても、法規制の対象外に身を置くわけだから、万が一の時に過酷な労働環境を証明することが極めて困難になる。柔軟性も、労働環境の保障もないが、一定額を支払えば使い放題も可能という経営者有利の制度だということを全国のサラリーマンは認識すべきだろう。


▼また「対象となる職種や年収は限られるから私は大丈夫」と思うのは早まった考えだ。法律で職種や年収は明記されておらず、あくまでも省令で規定される。この省令を定める時、影響力を持つのは経済界や学者といった現場のニーズを知らない人たちだ。この範囲を拡大し、年収要件も下げることが競争力と生産性の向上につながると考える、私からみればおめでたい人たちが彼らなのである。


▼現下の法律でも規制が規制として機能しない中、この緩和策に反対するのも当然だ。そもそも職場環境の悪さから心を病んだり、労働意欲が減退したりする者が我が国には多い。働き方改革は単なる法律論だけでなく、我々の労働慣習や価値観がこのままで良いのかなどにも向き合うべきであった。それを怠ったまま推し進める改革の行き着く先は「一億嫌々労働社会」だと私は強く言いたい。

【陣風賦】H30.6.30

「働き方は人並みで十分」と考える新入社員が6割超という調査結果が公表された。そこそこ働きそこそこ稼ぎ、しっかり休みたいという気持ちの現れだと思うと当然の回答であろう。労働を取り巻く環境にシビアな目を向ける20代らしい考えだ。


▼私も約3か月間働いて思ったのは、人並み以上に働いても「旨み」があまりないということだ。要は人並み以上に働いたところで、昇進や給与に反映されるわけでもなく、むしろ仕事量が増えるだけで損するからだ。人並みに働けば給与も役職も上がる典型的な年功序列の企業なので、その辺のモチベはない。


▼2000年代後半から徐々に焦点が当てられた「過労死問題」やフラットな人間関係を希望する若い世代と会社との認識のズレ、会社を自らの居場所とは思わない感覚など要因は様々あろう。労働を苦役と思う考えがここにきて表面化したにすぎない。


▼そもそも日本人は仕事好きでも、労働に生き甲斐を感じているわけでもないということが国際的な調査でも明らかになっている。美徳とされていたこれまでの価値観は実は嘘っぱちで、みんな渋々働いていたに過ぎなかったということだ。


▼もちろん好景気の頃は努力が金銭という形で反映され、人並み以上の労働に対価が支払われたから前向きな姿勢に多少はなれたのかもしれない。しかし昨今は、効率化を叫びながらもそれを促す研修やフォローも乏しく「OJT」という名の下で放任されながら、困惑する新入社員も多いことだろう。


▼すべてを総合すると「報われない」という気持ちに尽きるのだろう。お金や名声で報われないのなら「時間だけは誰もが平等にある。これだけは死守しよう」とプライベートの時間を優先するのも自然なことである。「誠意とは言葉ではなくお金」という言葉もある。そのお金すら保障できないのなら、休みくらいは十分に保障するのが道理ではなかろうか。

「遥かなるその日まで」3/192

新しい連載ブログネタ

私はTwitterで「労働は25年で終わりにしようと考えています」と呟いた。もしそれが叶うなら私は40代で仕事から離れるということになる。そのために常に収支の把握を行い、当面は貯蓄を、しばらくしたら投資にも励みたいと考えている。


年金が貰えるまでの10年以上の無所得期間に耐え得る資産を確保しなければならないという高いハードルがあるが、決して不可能な目標ではないと思う。この連載ブログネタでは、なぜこれを実現させようとするのか、これを実現するために何をしているのかなどの考えを定期的に書こうと思う。

会社は決してブラックではないが…

入社して早々に「いかにして早く辞めるか」を考える私の呟きを見て、危ない会社に入ってしまったのではないかと感じる人もいるだろう。しかし実際は大きく異なる。福利厚生完備、毎年昇給もあるし、一時間残業すれば多い方、理不尽なことで怒られることも当然なければ、ノルマもない、安定感抜群の会社である。


だからこそ私は途中で転職をしたり、休職することなく、多少の辛さや苦しみがあってもしがみつくことでこれを実現したいと思っているのだ。「早く辞める」とは、今現在からの時間軸ではなく「通常の退職年齢から比べて早く辞める」であるところが大きく違う点であろう。


労働とはやっぱり苦役

仕事が本当に好きで、一生続けたいと思っている人は幸いな人だろう。しかし、私からすると時間と神経のすり減りを差し出す対価として金銭を得る手段としか感じてならない。あの満員電車、あの気苦労、あの時間の喪失感、いくら制度が整っていても失うものが多すぎると感じてしまう感情は変わらないのだ。


特に心を殺し、人格を押し潰し週5日を過ごすことがどうしても耐えられない。人間常にありのままに生きることは難しい、配慮や遠慮もあるだろう。とはいえ「職場」というあの空間での人格や性格の変わり様には気が滅入ってしまう。良くも悪くも「日本的な」年功序列の会社に入ってしまった私の責任ももちろんあるが、ここまで己を隠して働かなければならないのかと驚かされてもいる。

毎月の楽しみとは

そんな心の消耗が最大の負担であり、普通の人たちには分からない疲れを癒し支えるのが、土日の休みであり、毎月の貯金額が刻まれる通帳を見ることだ。何もしなくていい時間であり、好きなことに集中できる時間が土日だ。いくらあっても飽きないことは怠惰な学生時代で証明済みであるから、毎日そうやって過ごしたいものだ。


一方でお金は生きる上で必要である。独りで生きるにせよお金はある程度ないと飢え苦しみ、路頭に迷う。そうであるからこそ多少の不平不満もこらえて働いた成果として貯金を重ね、増え行く数字の大きさには心が踊る。今はまだ人並みの生活を送るために必要な数か月分しか蓄えがない。これを何十年分に増やせたときが私の決断のときなのだろう。