水師営の別館

Twitterで呟ききれなかったことや最近気になったことを書くブログです。

20代からの早期リタイア計画「こんな生涯現役社会は嫌だ!」

政治の新しい動き

関心の強い政策は何かという世論調査の設問にて「社会保障」は上位に名を連ねます。年金や医療、介護など自分や家族にとって身近な話題であり、不安という感情に密接した存在だからこその高い関心でしょう。しかし近年の少子高齢化社会保障制度を困難にしています。制度を持続させるためには負担のあり方を検討する必要がありますが、負担増不可避という結果になることでしょう。


困難な社会保障制度改革の一環でしょうか、政府は「未来投資会議」を設立しました。地方振興や成長戦略なども議論するようですが、生涯現役社会実現に向けて「全世代型社会保障改革」を進める模様です。生涯現役を言うは易しですが、いかにして実現させていくか、まだまだ言葉先行な感じします。しかしその方針を見ると残念ながら我々世代にとって旨味のある改革とは言えないようです。


望む人にはというまやかし

生涯現役を実現させるために、まず掲げられたのが「継続雇用年齢の引き上げ」です。安倍首相は「意欲ある高齢化の皆さんに働く場を準備」と言います。望む人が好きなように働き、たくさん稼ぐことは否定しませんが、果たして希望者だけが働く社会になるのかという疑問があります。雇用年齢の引き上げと共に年金受給年齢まで引き上げられると仕方なく働き続ける人が増えるからです。


現在の65歳受給を68歳にするという噂もあります。また70歳超からの年金繰り下げ受給も受給年齢引き上げの布石とも言われています。そして年金を受け取る人と原資となる保険料を支払う人のバランスが悪化するにつれて支給額も減っていくことが予期されます。年金で悠々自適が叶わないゆえに働かざるを得ないという状況を作っているのではないかという疑念が拭えません。


働くことありきの生涯現役

寝たきりにならず、医者になるべくかからず社会の中で生きていくことは重要なことでしょう。学び直しや地域でのつながり、趣味やボランティアを続けていくことなどあらゆる社会との関わり方を推し進めていく生涯現役社会なら私は大賛成です。ところが生涯現役社会というプランの中で大きな割合を占めるのが労働に関わる部分ばかりです。


生涯現役社会は建前で、本質は社会保障制度を支えるプレイヤーを増やし、社会保障制度を享受する人を抑制したいということでしょう。我々世代は確実に定年が65歳になるでしょうが、そのゴールが延び、ゴールすら消えることをどれだけの人が受け入れられるでしょうか。働き方がこれを機に変わるわけでもなく、職場で9時~18時で週5日を死ぬまで続ける社会はもはや絶望です。


若年層の貯蓄志向が進むだけ

若い頃にモーレツ社員、企業戦士として働いた高齢者やその経験のあるベテラン社員にとっては雇用延長は平気なことでしょう。そして気を使う相手もおらず、お金が稼げるので意欲的なのも納得がいきます。しかし今の20代はどうでしょうか。ワークライフバランス、プライベート優先の価値観と過労死やブラック企業問題を目にしてきた時代環境です。そう簡単に働くとは思えません。


そして残された選択肢は自己防衛しかなく、ますます貯金志向が強化され、無駄遣いや消費を抑え、死ぬまで働かないような生き方を取るように思われます。私のような生き方が多数派とまでいかなくとも一定の割合で増え、社会問題化しそうな気もします。人生設計の多様化した時代において「労働」だけを軸とした生涯現役社会の制度設計が果たして有効なのか、今一度検討すべきと考えます。

【陣風賦】H30.10.6「3度目の登板」

先月の自民党総裁選で3選を果たした安倍首相は、6年前に2度目の総裁就任を目指した際、周囲から懸念を示されたという。仮に負ければ政治生命が完全に終了するという不安と、前回政権時の辞任劇の印象が残る中での勝算の低さを指摘されていたからだ。しかし結果は返り咲きを成し遂げ、憲政史上最長となり得る政権である。あの懸念は杞憂であった。


▼一方、2度目ではなく3度目の登板となるこちらの「政権」はどうだろうか。次期巨人監督に原辰徳前監督が就任する模様だ。しかし仮に来季優勝を逃せば巨人軍史上初の5年連続V逸となる。また野球賭博問題や自身の反社会勢力との交際など3年前の退任時の記憶は新しい。


▼「実績、経験のある人」という球団首脳からの言葉からも後任は原氏で間違いないだろう。若手がついに台頭した2018年シーズンの巨人をどう発展させていくのか、この点に強く関心が寄せられる。思えば「第二次原政権」も若手を開花させ、2度にわたる3連覇を実現させた。


▼もちろん若手の積極的起用だけではなく、補強も適切に行い成功した点も見逃してはならない。代表例としては07年の谷、小笠原、翌08年のラミレスの加入であろう。また12年の杉内と村田の補強は2度目の3連覇につながった。補強したにも関わらず、二軍の肥やしやベンチを温める選手にするようでは意味がない。


▼冒頭で述べた安倍氏再登板時と同様に「第三次原政権」が決定的な最近においても人材難を指摘する声がある。重責を担うに足る人物が明らかに少ない。とはいえ、選手の世代交代だけでなく、コーチ陣に今後の監督候補を起用すれば、意義ある3度目の指揮になるはずだ。ポスト原も現れるか「組閣」を見守りたい。

【陣風賦】H30.9.22「押し付け土産と私」

「これ配っといてね」この言葉を職場で言われるたびに私の心は虚無感に覆われる。そう職場での押し付け土産だ。私は拒否する術もなく無感情のまま「◯◯さんからのお土産です」と機械的に配り、土産の入った箱を解体して捨てるのである。平成も終わる今日この頃、昭和的な陋習に私はうちひしがれるのであった。


▼そもそも土産とは知人や親しい人に感謝の気持ちや楽しかった思い出の共有を図るために持参するものである。だからこそ渡すと同時に「土産話」も生まれるのであろう。しかし土産を押し付けられた私には感謝も思い出も何もない。当然ながら土産話なんてできるはずもない。


▼ただ託された、強いられた配布であるから「これはどこのお土産?」と別の社員から言われても私には分からない。銘菓ならまだしも、マイナーな、センスの悪いお土産なんて全く分からない。ただ製造会社の所在地を告げて「◯◯でしょうね」と愛想笑いをするだけである。


▼買ってきた本人が配れば、このような面倒臭いやり取りもなくなる。そもそも土産本来の意味を考えれば、観光に行ってきた本人が配るべきであり、楽しさを共有したいなら自分で配るべきだ。それを新入社員だからといって私に配らせる目的は何なのか釈然としない。


▼「新人は一時間あたりの単価が安いから」という理由なのだろう。しかし休日の旅行は完全に私的な活動だ。他人のプライベートな行楽の尻拭いをさせられていると思うとこれは業務とは無関係な奉仕活動である。それは私の担当業務ではないと内心不満の気持ちでいっぱいだ。


▼お土産を配ること自体は数分のことであり難しいことではない。ただ、なぜ他人の無関係な土産を押し付けられるのかその理由が分からず、そして他人に押し付けようとする職場の彼らの心理も分からないことに私は困惑するのだ。


▼「お土産配りは女の仕事」という職場の他に、新人の仕事と押し付けられている職場はもっとあるのではなかろうか。このような文化は私の代で滅ぼすしかない、そう決意しながらも私はまた押し付けられるのだろう。どうか皆さんには押し付ける人間にはならないでほしい。

【陣風賦】H30.9.15「就活ルールの廃止論」

先日、経団連の中西会長が2021年大学卒業からの「就活ルール」の廃止を提案した。中西会長はあくまでも個人の意見としたが、財界トップから発せられたこの言葉は政界、大学、その他財界関係者を巻き込むものとなった。大学3年3月に説明会解禁、同4年6月に面接開始という現行ルールが変わるかもしれないとなり、その当事者である学生にとって大きな関心事であることは言うまでもない。


▼学生の選択肢を増やし、これまでの就活慣行の改善につながる契機になるか。賛否両論真っ二つに別れている。なるべく多くの学生にとって恩恵を被る結論を出したいところだ。


▼就活ルールの廃止が議論の俎上に挙がっているが、実態としてはすでに就活の早期化は進んでいる。大学3年の夏から始めるインターンシップはその典型例であろう。キャリア教育、ミスマッチ回避という効果が期待されるが、早くから就活を強いられる学生を思うと憐憫の情すら湧く。


▼私は夏期休暇はしっかり休み、遊びたいと思いインターンシップには参加しなかった。そんな怠惰な学生でもなんとか労働者になれたのも、就活ルールという目安があったからだと思う。さすがに3月からは始めようと重い腰も上がった。


▼このように考えると就活ルールは意識の低い学生にはありがたい存在だった。グローバル化、国際競争力などという企業の事情は関係ないのだ。そもそもそれらに対策を取っても取っても落ちぶれていった失策を思い起こすべきだろう。


▼今以上の長期化となれば、単に時間的な問題だけでなく、地理的、経済的問題も考慮しなければならない。就職先を見極める、腰を据えた就活の裏にはそれを可能にするためのリソースが必要だ。地方と都会、お金に余裕のある学生とない学生の格差は広がりそうだ。


▼こうしたリソースを持つ学生と持たざる学生の格差が広がるのみならず、通年採用に耐えられる人・モノ・カネのある企業とない企業の格差も広がるだろう。雇用のミスマッチどころか雇用にありつけない若者を増やしては誰のための改革なのかとなる。十分に議論してほしい。

遥かなるその日まで 「死ぬまで働くって幸せ?」

人生100年時代と言うけれど

日本人の平均寿命は伸びゆく一方であり今や人生80年どころか100年と言われています。我々若い世代の人生は今後の医療の発達を踏まえると、言葉通り1世紀近いものとなるでしょう。そしてやはり老後は自分達の祖父母や近しい年配者のように悠々自適に余生を過ごしたいと願う人も多いのではないでしょうか。


しかしどうも社会は悠々自適あるいは趣味や娯楽に生きる老後を認めない雰囲気です。ネット記事を開けば「生涯現役」だの「年金で足りないお金は働いて稼ごう」と推奨しますし、政府も高齢者の定義を変えようとしたり、定年を延長ないしは廃止させたりしようと画策しています。つまりは「死ぬまで働け」と宣告しているようなものです。

なんか理不尽で損した気分

少子高齢化のもと働き手を維持するために働ける人には働いてもらう意図はよく分かります。とはいえ今の高齢者の多くが享受する余暇や余生もなく、老体に鞭を打って働くことを強いられるのは一度きりの人生を労働に捧げるようなもので理不尽さを覚えます。仕事人間、モーレツ社員が失われた概念になった我々世代が、なぜ一生を労働に費やさなければならないのか釈然としません。


仕事とは単にお金を稼ぐだけではなく、社会的な繋がりを維持したり、自己実現をするためにあったりするのだと言う人もいるでしょう。しかし、職場だけが社会との繋がりであった時代は過ぎ去りましたし、所得が増えず、劣悪な労働環境が問題視されるようになった昨今において労働で自己実現という価値が成り立つのはもはや困難かと思います。

懲役40年というネットスラング

死ぬまで働けという潮流に冷ややかな、否定的な反応として「懲役40年」という言葉があります。新卒で就職して60歳~65歳の定年まで会社で働き続けるという姿を皮肉を込めて表現したものです。一つの会社で勤めあげるといかなくとも、結局は老いるまで働き続けないといけないわけですから、それに対する忌避感、絶望感を表したまさに言い得て妙な言葉だと感じます。


ところが定年延長、廃止となると「懲役40年」どころか「終身刑」です。「あと◯年頑張ったら定年」というモチベーションでなんとか働いているお父さん世代の背中をまさに見てきた子世代にとってこのゴールなき労働がどう映るのか考えるべきでしょう。平均寿命は伸びても、健康寿命は横ばいな現状だと、税金だけ納めて死ぬ要員を増やしたいだけとしか思えません。

若いうちから備えを

もし今の仕事を天職に思うなら、それは幸せなことであり働き続ければいいでしょう。しかし私のように仕事は生活やお金のためと割り切る人は20代のうちから蓄えるべきでしょう。年功序列の賃金が保障されているとは限りませんから早めの対策が死ぬまで働けを回避できる唯一の道です。そして早期リタイアを夢見る私のような風変わりな人はそのペースを20代から加速させて準備しましょう。


40代半ばでの早期リタイアを想定してすでに貯金を始め、その計画を立てた私は稀少な存在でしょうが、長い長い人生が待っているというのは誰しもに与えられた課題です。健康、社会との繋がり、一生の趣味など生きがいを見つける準備に遅いということはありません。これについて若いうちから考えて無駄ではないと思います。