水師営の別館

Twitterで呟ききれなかったことや最近気になったことを書くブログです。

ナゴヤドームの空席

明暗分かれた各チーム

プロ野球が開幕し約2週間が経過しましたが、好調なチームとそうでないチームの差が大きいです。昨年の覇者・広島は大型連勝を達成、巨人は補強と若手の起用が相互作用しつつあります。一方でなかなか勝ちにありつけず、先発に勝ち星がつかないのが中日です…そして本拠地開幕シリーズの対広島戦での空席の多さに私は驚きました。

黄金期の怖さはどこへ

2013シーズンより4年連続のBクラスの中日ですが、今季始まって数試合を確認すると先発はよく打たれ、接戦は接戦のまま引き分けて疲れたまま翌日へ。頼みの打線も安打は出てるけど得点につながらない印象です。しかし2000年代半ばから後半の中日は本当に脅威でした。投打が噛み合い難攻不落の存在でした。


アライバコンビの攻守にわたるいやらしさ、ウッズやブランコといった打線を彩る外国人選手、ゲームでも本物でも打ってくる森野に福留に和田、安定の谷繁という面々にやられた記憶は今も残っています。そして特徴づけられる投手王国。落合時代初期の川上や山本昌、後期の吉見やチェン、なんといっても中継ぎ、抑えの堅牢さは言うまでもありません。


世代交代に苦しんだここ数年

強竜打線、投手王国の中日も今は昔、不振の原因は何か…言うまでもなく「世代交代の失敗」でしょう。黄金期を築いた選手の多くは引退、ベテランの域に達しました。彼らに一年間を通しての活躍を期待するのは酷でしょうし、またFA容認の落合政権はチームの主軸を少しずつ失っていたことも忘れてはなりません。


巨人は昨季の成績を受け大型補強、阪神は「超変革」のスローガンのもと若手起用をしました。各球団違いはあるものの早い反応だった一方、中日は世代交代への危機感が遅かったように見えます。若手が必ずしも即戦力になるわけでもなければ、ケガもあります。ここ数年は辛抱の時期かもしれませんが、やはりあまりにも長すぎる停滞に経営陣はもっと危機感を抱くべきでしょう。


薄情な親会社のコストカット路線

弱いと観に行かないという気持ちは理解できるし、それが数年も続けば嫌気がさすのも分からないでもありません。しかし夏休みや土日、対巨人戦などポジティブな要素があっても空席が目立つ様子を見ると落日の中日を嘆かわしく思います。弱いなら補強!という判断もなく、逆にGMとなった落合氏はチームの年俸削減に励み、更なる流出の危機を招くところでした。


不振の責任を取って落合GMは退任しましたが、退任前には年俸問題をきっかけに大島がFAを匂わせるなどチームを支えた選手への情が薄かったのも印象強いです。親会社、中日新聞の意向とは思いますが、選手への冷遇と中日の不振に比例していることをもっと認識すべきでしょう。


足を運びたくなる球場作りを!

しかし東海地域で中日離れが起きているとは言えません。弱いけどひいきチームはやっぱり中日という人が多いように見えます。でもナゴヤドームに行くほどではない…これはやはり未だに地上波中継が充実している点と魅力ある球場作りに励まない無気力な営業という点が大きく影響しているのではないでしょうか?


中日新聞とゆかりの深いテレビ局を中心にナイターもしっかり地上波で放送される環境があります。それでファンが満足する状況が空席を招いているのでしょう。一方、DeNAは球場に足を運んでもらいたくなるような工夫を重ね続けました。球場の改修やグッズ、食事の改良、ファンサービスの努力など観客動員数は上り坂です。


しかし中日は「勝つことが最大のファンサービス」に浸かりきったのか、特筆すべき取り組みもなく、他球団の二番煎じのようなサービスしかありません。球場をワクワクできる空間に!この意識を持たないと、対巨人3連戦は満席であるとはいえ、空席の多いさみしいナゴヤドームのままだと私は考えます。

クレヨンしんちゃんの映画を見て

ドラえもん&しんちゃん3時間スペシャルを録画してたので、つい夜中に見てしまいました…自分語りエントリーシートを書こうと思ったものの物語に引き込まれて最後まで見てしまいました。単純に面白かった、よかったという感想でした。小ネタがいつも以上に多かったと思うけど、これはご愛嬌でしょう。私は割と好きでした。
※ここからはネタバレがあります


子供の夢、大人の夢の対比

ユメミーワールドを維持する上で子供はユメルギーの供給源な一方、大人はユメルギーが小さいためあっさりと悪夢の世界へ排除されてしまいます。いつしか無垢な夢は失われるとはいえ、その別れをひしひしと感じる就活というこの時期は酷なものであります。憧れや希望を捨てて、世間体や現実を優先する私のユメルギーは微塵もないのかなと感じました。


しかし物語の中で、ひろしもみさえも童心や汚れなき心を示すことでユメミーワールドの中で抗うことができました。誰しも本当は純真な夢があるだろうし、それを抑圧しながら生きることの無情さを嘆かずにはいれません。今作では子供の心を全面に出し、最新作では心どころか子供に返ってしまいます。失ったものへの憧憬が込められているのでしょうか?


受け入れた悪夢の世界

悪夢を滅ぼすためにサキ含むかすかべ防衛隊が戦った結果、悪夢を撃滅寸前まで追い込みました。私は最後に悪夢を滅ぼす展開を想像しましたが違いました。サキは「ううん、消えなくていい、私の中にずっといていいよ。私はもう大丈夫だから」と(悪夢を表す)過去の自分自身に語ると彼女はいなくなりました。


もしここで悪夢を滅ぼしていたら、この映画は単なる『子供向けの怖ーい、不思議な作品』で終わっていたでしょう。しかし母親の死という悪夢(のような過去)をあえて受け入れる結末を描いた点で、清濁併せ持って生きる人間の強さ・弱さを表現してくれました。このラストシーンがあるからこそ大人も楽しめるいい映画になったのでしょう。


自分の中の悪夢は必ずいる

怖い夢という「悪夢」は見たことないつもりですが、「悪夢のようなトラウマ」はいくつかあったと思います。ただそれを常に心の奥底に抑圧してるだけで、無自覚に生きてると思うと「悪夢とはすぐそばにいるもの」ということを考えてしまいます。無理に引っ張り出して直視する必要はないけど、絶滅させることもできない難しい存在です。


嫌いなもの、避けたいものはたとえこちらが回避しても向こうからやって来ることが多いです。その時どう上手くやっていくか、正解のない解決策を自分で見つけるのが人生なのかと感じました。まさかこんなことをしんちゃんの映画で考えるとは思いもしませんでしたが、変な自己分析本を読むより2時間この映画を観た方があなたのためかもしれません(笑)

嘆かわしい「エントリー動画」

毎晩∩(´;ヮ;`)∩ンヒィィィィィと苦しみながら締め切りに追われています。アホらしいなあと思いながら字数いっぱいに文字を埋めていますが、ある企業はエントリーシートだけでなく10秒間のエントリー動画まで要求…これは馬鹿馬鹿しいと感じて諦めましたが、こんな茶番に付き合ってられないです。


企業と学生のいたちごっこ

頑張ったネタ、自己PRネタなど当初は人間性を把握するための新鮮な設問だったでしょう。しかしこの設問を課す企業が増えた結果、学生はウケの良さそうな似た回答ばかり作りました。そこで差別化を促すよう企業や就活本が指摘したものの、再び対応したのが就活生…ボランティア、留学、バイトリーダーなど主語の大きいネタが氾濫しただけでした。


個性と画一性が互いに争った結果、みんなで「スゴいネタの競い合い」という奇妙な状況が生じました。他人がしないからこそ「スゴい」のであって、みんなが経験することは「当たり前」なのにスゴいアピールのオンパレード…この矛盾した自慢争いを見極められるほど人事は有能なのか甚だ疑問です。


とんだ茶番に踊らされて

似たようなスゴいアピールを嫌うのか、近年では「あなたらしさが伝わる写真を載せて自由に記述してください」という設問が増えているようです。サークルやゼミのメンバー紹介じゃあるまいし、私的な写真を載せて何が分かるのか、そして「オタクやボッチやブスは死ね」と暗にリア充さや美醜が基準だよと示すところにいやらしさを感じます。


「自由」という言葉もくせ者です。本当に自由なら泥酔した写真も、アイドルに熱狂する写真も、昼寝の写真もありでしょうがそれはダメです。自由(自由とは言ってない)というお約束ですからね。結局は本人の実態とかけ離れた「リア充アピール」や「奇抜アピール」ができた顔のいい子が得する個性も人間性もへったくれもない選考となるのでしょう。


万策尽きたから?茶番劇の終着点「エントリー動画」

まずはこちらのニュースを…
www.sankei.com
動画で志願者の人柄や熱意が分かると訴えていますがそうでしょうか?我々はYouTuberになるために大学教育を受けてきた訳でもなければ、歳を取った訳でもありません。アイドルのオーディションを通過するためでもありません。ただ生活するために働くつもりなのに、どうしてこんな子供の悪ノリじみたお遊びをしないといけないか…


素人の自分語り動画を赤の他人たる人事に恥ずかしげもなく提供するとはどんな罰ゲームなのか…熱意を伝えるためにお金も時間も動画技術習得もかかると思うと、歪みきったシューカツ制度の成れの果てなのかと思います。単に羞恥心や面倒臭さを利用して募集ハードルを上げる目的で動画を課すのなら選考プロセスの負担を学生に転嫁してるだけです。


エントリー動画では解決にならない

人間性が分かるつもりでエントリー動画を要求しても、所詮画一化の再生産であることに変わりありません。そもそも動画制作なんて大抵の社会人に必要な能力ではないし、投稿する彼らは「就活生」としての能力を鍛えてるだけで「社会人」としての可能性はますます否定されるばかりです。なぜなら写真も動画も悪ノリとお遊びの指標でしかないからです。


結局は最初から文章力という能力で競わせ、嘘つきは面接で排除すればいいだけの滑稽な話です。ニヤニヤしながら「こいつおもろいな」とか「かわいいな」と言いながら動画を覗く人事のオヤジたちが想像できます。でもそんなオヤジたちはエントリーシートもエントリー動画もない気楽な時代に採用されたのだから、茶番も大概にしろと私は強く言いたいです。

巨人戦の視聴率

プロ野球の人気形成には様々な要素があるでしょうが、その一角を担うのが野球中継だと思います。近年では地上波中継は激減し、変わりにBSやCS放送が台頭、そして最近はネット配信も充実しています。コンテンツの多角化と幅広い発信力の強化に努めているのが現況だと思います。

 

 

巨人一極集中は過去のものとなり、地上波を基軸とする放映体系からも転換したというのが結論でしょう。これまで私は地上波での野球の露出激減がプロ野球人気の弱体化を招くと常々憂慮してましたが、案外そうでもないのかもしれないと思いました。

 

 

 

しかしそれでも巨人のファン層の広さや全国的人気はまだ続くことでしょう。これまでの野球中継=巨人戦という貯金や世界最大部数の新聞社という金持ち親会社を持ち、充実した放送網という強みも持つ球団は巨人しかありませんからね。それもまたヒール役を演じるゆえんでもあります。

 

 

だからこそ巨人戦の視聴率はある種の人気を問う指数でもあり、開幕戦での視聴率はその年一年の視聴率を占う大事な数字かと思います。そして発表されたのがこの結果であります。

headlines.yahoo.co.jp

これを高いと思うか、低いと思うか…個人的には今の巨人の実力ならこんなもんでしょうという感想です。「二桁維持できてよかったね」と…

 

※過去10年間の平均視聴率はこちら

※すべて19時からの数字

H20 11.0%

H21 13.3%

H22 11.3%

H23 11.8%

H24 11.8%

H25 13.0%

H26 10.0%

H27 10.2%

H28 10.4%

H29 10.7%(今年)

 

開幕戦では二桁達成ですが、その後の地上波巨人戦では続かないんですよね…たとえ巨人優位のまま終了した放送でも7~8%なことが多いのが開幕戦以外の地上波巨人戦の現状です。ゴールデン帯で望まれる最低限の数字10%も取れない、にもかかわらず放映権や資機材でお金がかかる番組が減らされるのも仕方ないことでしょう。

 

 

どうしても巨人戦を見たい人は最低でもBSを見られる環境を作るしかありません。BSと数少ない地上波を合わせればほとんどの試合を楽しめますからね。もしくはネット配信サイトに契約するしかないです。タダで楽しめるテレビでの野球観戦という趣味もお金がかかる時代になったと寂しさを感じながらこの記事を終えます。

どうなる大学無償化

このブログでは初めてとなるより硬派な政治的な記事となるでしょう。安全保障や経済について取り上げるのも一つの案でしたが、読者層が学生だろうということで身近な話題を扱うことにして、皆さんにも考えていただけたらなと思っています。ずはり今回のテーマは大学教育とお金の話です。そしてその中心となるのは大学無償化の話です。



結論から言うと、私は大学無償化に部分的賛成です。つまり、実施するなら国公立大進学者限定の授業料無償化にすべきでしょうと考えています。なぜ国公立大進学者だけなのか、そしてなぜ一律無償化に反対なのか。それは一つに財源がなく、二つに無償化の価値がない私立大学が多く、三つに家庭の教育費増になるという3つの理由が考えられるからです。



まず「財源がない」です。ここ数年歳入は増加してますが、国民の健康にかかわる社会保障費や国民の生命、財産にかかわる防衛費増を優先せざるを得ません。そんな中、新規に予算措置を講じる余裕はなく、全大学の授業料無償化で約3.1兆円と言われています。なお国公立大に限定すれば約4千億円必要ですが、国が国民に高度な教育を提供するという観点から考えるとこれが現実的な最大限の支出額でしょう。



2つ目は「無償化の価値」です。大学進学率は半分を超えた我が国ですが、これは単なるモラトリアムの延長の場と化した高等教育としての資質が疑われる私大が増えたことの証拠ではないでしょうか。中高の英語や数学の復習レベルの講義を受ける学生に税金を費やす価値が果たしてあるのか…薄っぺらい学士号獲得に付き合う余裕はありません。



3つ目は「家庭の教育費増」です。無償化は経済的理由からの進学断念を解消することが目的の一つです。しかしその分多くの家庭が受験に参戦することになります。高所得層は容易に教育費を積んで今度は大学の「質」を上げられるでしょうが、低所得層はたとえ経済的問題から解放されてもこれでは太刀打ちできません。そして中間層は受験戦争勝利のための戦費増に疲弊してしまうでしょう。



無償化で安くなるどころか高校いやそれ以前からの教育費の支出に追われては元も子もありません。タダと思いきや実は負担の順序を組み替えただけという滑稽な話になっては意味がありません。仮に国公立だけ無償化となれば1つ目、2つ目の問題は解決するでしょうし、最後の問題はそれでも確かに起きるでしょうが、一律無償化に比べれば世間の許容範囲内で影響を抑えられると見ています。



私大進学者は自己負担でと感じるのはやはりいわゆるFラン大学が多いからでしょう。国が偏差値という曖昧な基準で足切りをするわけにはいきませんから、運営実態の審査を厳密にするしかないです。そして年間約3千億円の私学助成の分配額も再検討すべきでしょう。浮いた分を難関私大進学者向けの奨学金に充てるのも一つの案でしょう。



大学無償化議論は主義主張をこえて納得できるはずのテーマです。予算根拠と対象校の選別さえ決まれば一定の議論を経て実現すると期待しています。「私の頃は苦労しながらも~」という個人的経験談から反対する人もいるでしょうが時代が違います、物価も学費も違う以上ナンセンスです。新入生が大学に入る季節を前に私はこのように感じました。