水師営の別館

Twitterで呟ききれなかったことや最近気になったことを書くブログです。

サヨナラ、サヨナラ…

最も美しい言葉の一つ

戦前、巧みな弁舌を駆使し、世界を相手にした政治家がいた。その男は松岡洋右といい、彼は「国際連盟脱退」と「日独伊三国同盟締結」という日本外交史における重要人物の一人である。その彼は、国際連盟脱退の演説で「サヨナラ!」と言って退席した話が有名だが、これは誤りである。


その事実は、昭和8年に訪問先のカリフォルニアから彼が全米にラジオ演説をした際に使われた言葉だ。彼はラジオ演説の終わりに

“Allow me to say good-bye to you in Japanese. The word that we use in saying farewell to a friend is one of the most beautifull in our language. I say it to you- SAYONARA.”

と述べたことが真相だ。青春時代を米国で過ごした松岡が、雲と霧が立ち込む日米関係を前に語ったこの「サヨナラ」にはどんな意味が込められていたのだろうか。若き日に苦々しい経験を重ねた米国への決意でもあり、自らのアイデンティティを形成した第二の母国への名残惜しさでもあるのだろう。


サヨナラを告げるとき、我々は割り切れない気持ちでいっぱいではないだろうか。一言では語りきれない感情をこの一言に込める。それが「サヨナラ」であろう。私も今また、卒業そして就職に際し、決意と名残惜しさをもって、この美しい言葉を言おうと思う。


人に恵まれた4年間

大学に入ったとき、これほどにまで別れを惜しめる友達と出会えるとは思いもしなかった。同じような趣味や価値観を共有する仲間と過ごせたことは幸せであったし、飲み会好き、旅行好きという環境は友好を深める最高の条件であった。その結果、仲間割れや喧嘩ということは一切なく、卒業式の日を迎えることができた。


2人や5人などの間ではなく、10人以上の集団で、この友情が成立したのだからその意義は深い。もちろん卒業後も「また集まろう」と誓ったが、何気ない日々の飲み会や会話がもうできなくなると思うと寂しさと喪失感でいっぱいである。飲み会は社会に出てからもあるだろう、しかし、心置きなく、誰かに遠慮することなく食事や会話を楽しめる場はきっとないだろう。


往生際の悪い私

飲み会は数え切れないほど繰り返したし、旅行や合宿、花見やバーベキューといった定期的なイベントも年に何回もした。そのためあれをすればよかった、ああしておけばよかったという悔悟の念はない。ただ毎年の積み重ねがもうなくなるだけに、私は今日までの日々を振り返りたくなるのである。


「本当の最後の日」に名残惜しさをこうして書くのも、往生際の悪さの現れであろう。さっぱりとした気持ちになれるほどできた人間ではないことの証左だ。したがって、私はこの4年間から敢然と決別することはできない。私が美しい言葉をもって別れを告げるべきは友でも、4年間の思い出でもないと確信している。告げるべき相手は私自身に内在する「恐れ」なのだと…

私は昨日までを抱えたまま新しい第一歩を踏み出す。
「サヨナラ!我が恐れ!」と

学歴フィルターという酷な現実

定期的にネットで話題になる話

先日、ある女学生のツイートがTwitterで話題になった。自身が所属する大学名で登録したアカウントで説明会に申し込もうとすると「満席」だったが、難関大の名前に変えて申し込むと「空席」だったという内容だ。毎年この時期になると出てくる話題であるが、あまりにも酷な現実を突きつけられる気の毒な問題である。


そして学歴フィルターをめぐり賛否両論分かれるのもお約束のことであり、知らず知らずにこの話題は薄れてゆくのだ。事の真偽や賛否を論じていては堂々巡りになってしまうため、今回はなぜこのような「区別」が生じてしまうのか、そして排除される側の学生たちの「対策」について考えたい。


学歴という無難な基準

就活サイトが登場して以来、学生がエントリーする障壁が著しく下がったという。パソコンなき時代は一社ずつはがきを書いて資料請求をしていたが、今はもうスマホで簡単に応募できる時代だ。学生と企業の距離が縮まった分、志願者も増加した。雑多な志願者を足切りしようとした結果があの満席だろう。候補が多すぎることの弊害を考慮しての無難な選別だろう。


エントリーシートでも学歴フィルターはある。似たり寄ったりな文章の中で目立ってしまうのはやはり学歴になってしまう。もちろん学歴ではなく、一生懸命書き上げた文章からキラリと光る逸材だっているかもしれない。しかしいちいち探し出す精神的、時間的余裕がないと人事は言うだろう。例えるなら珍味に手を出すより、安心の枝豆や冷奴がいいという感じだろうか。


諦めも肝心、でも諦めすぎは禁物

学歴フィルターが強くかかる大学の学生は一定の「諦め」を前提とした就活をするのは仕方ないことだろう。つまりあの大企業、あのCMの企業は無理だと思い、就職の軸を定めるということだ。ただこの諦めというフィルターを厳しくかけてしまうと選択肢を著しく狭めてしまう。よく探すと好待遇の企業や無名の安定企業だってあるものだ。


面接練習や自己分析に血眼になっても時間の浪費だ。しかし企業の待遇や福利厚生、離職率、業界の展望などを調べ尽くすことは、うっかりブラック企業や処遇の悪い業界への就職のリスクを減らすから努力してほしい。諦めの気持ちも大事だが、だからといって情報収集する気力さえ失わないでほしい。弱った学生を甘い囁きで呼び込むのが悪徳企業の常套手段だ。


ネットには「Fランでも大企業に!」という煽った話もあるが、確率の低い成功談にすがるより、情報の収集と比較に励んだ方がはるかにマシだ。そもそも大企業は難関大、準難関大でもハードルが高い。名を捨て実を取る努力すら諦め「Fランだから」と自嘲することが最も危険である。自嘲して勉強にもサークルにもバイトにも匙を投げるのが一番最悪だ。


リクナビを見ていると…

離職率の高い業界、低所得になりやすい業界のページを見ると、残念ながら聞いたことのない大学の名前ばかり採用実績にあり、先輩紹介もまた無名大学が羅列してある。やはりそういう傾向にあることは事実だが「私もそうなる」とすぐ絶望せず、回避の道を探ってほしい。公務員試験という道もある。今は試験の倍率も低い好機の時期だ。


休日が100日程度の企業もたまに見かける。固定残業代ありきの給与体系の企業もそこそこある。有給取得率が半分もない企業もある。あの難関大と同じ土俵に立って勝負したら、こんな企業しか残ってなかったでは意味がない。体力もいつかは落ちるし、中高年になって所得が伸びないのは精神的にもこたえるに違いない。転職も今後の景気や学歴を思うとリスクもある。


だからこそ学歴フィルターを感じる人は程よい諦めと執念の情報収集に励んで長く働ける職場を見つけてほしい。一方でそれを感じず、実力でどうにでもなる人は選択肢の多さに幸運を感じて頑張ってほしい。もちろん何を重視するかは千差万別だろうが、心身の健康を損ねない仕事かどうかは絶対に考えておこう。特に心を病めば再起動するにも一苦労だからだ。

DAZNプロ野球中継参入と放映権

DAZNプロ野球11球団を配信へ

スポーツ動画配信サービスを提供するDAZNは、2018年シーズンよりプロ野球11球団の試合を配信することを決定した。昨季までのDeNAと広島の2球団から11球団に拡充するため、この決定は大ニュースである。なお私のひいきチームである巨人がその残り1球団であり、巨人主催試合を見るにはBS日テレもしくは日テレG+で見るか、専門のネット配信サイトとの契約が必要だ。


巨人の相も変わらず強気な姿勢には否定的な声もあるだろう。しかし(巨人主催試合についても現在DAZNは交渉中とのことであり)今回はプロ野球中継を取り巻く放映権の厳しい現状を踏まえ、ネット時代の野球中継について考えていきたい。


地上波巨人戦という「平和な時代」

10年以上前からの巨人ファンの方なら強く共感できると思うが、当時はほぼ毎日、巨人戦が地上波で中継されていた。録画機器がまだあの頃はビデオデッキだったため、野球中継の終わりが何時か把握できていないとその後のドラマが正しく録画できないという悲しい経験をされた方も多いだろう。視聴率は毎晩最低でも10%を越える優良コンテンツの一つだった。


そのため巨人戦1試合につき1億円という今となれば法外な値段で各球団が放映権を売っても、テレビ局は購入したため、セリーグ5球団の安定的財源となっていた。球団と局の持ちつ持たれつの関係が成立する「平和な時代」が続いていたのであった。しかし巨人の絶対的、相対的人気の低下、それに伴う巨人戦の視聴率低下と中継数減少という時代の変化は、巨人におんぶにだっこの商売の終焉を意味した。


放映権で稼げなくなった各球団は魅力ある球場やグッズ作りに尽力し、観客収入を増やした。また球場そのものを所有や管理することで、看板広告や売店収入を得るなど、巨人戦の地上波中継がないことを前提にした体質に生まれ変わることに成功したのである。さらに(交流戦があるとはいえ)対巨人戦の少ないパリーグはBSやCS放送に積極的であったし、一部の球団は地上波ローカル放送に軸足を置いたことでコアなファンを拡大した。


ネット配信は野球人気回復のカギか?

こうした現状から二度と巨人戦の地上波中継は復活しないだろうし、他の球団もアテにしていないことは理解できるだろう。そして今般の巨人を除く11球団の配信決定である。この配信決定の何が画期的であるかというと全てではないとは言え、一つのネットサービスでほとんどの試合を観戦することが可能かつ家以外でも楽しむことができるからだ。


これまでは個別に、配信サイトを切り替え、料金を支払って観戦する必要があった。それが同じサイト内で、一括料金で野球を楽しめるのは大いなる進歩である。またひいきチームのみならず全ての試合を同時に楽しもうと思うとネットでは限界があった。そのために月々約4000円を支払い、CS放送に加入せざるを得なかったが、これが半値以下になるのだからありがたい話だ。


わざわざ家に帰って見る必要もなくなり、帰宅途中や外出時でもリアルタイムに一投一打を確認できるのも大きな強みである。そしてCS放送は野球が好きという前提がなければ契約しないものだろう。しかしDAZNは多種多様なスポーツを配信していることから、スポーツ好きという括りで入口を下げ、ネットに慣れ親しんだ若い世代を引き付けるには十分な条件である。


プロ野球との新しい出会いの場に

まるでDAZNの回し者かのようにメリットをあげてしまった。もちろん回線が安定するかどうかは地域や居住環境によって変わるだろうし、テレビに比べれば画質も劣るなどデメリットも存在する。しかしほぼ全ての試合をネット配信できることになった革新性は特筆すべき点であることには変わりない。


このネット配信により、サッカーやバスケ好きの人がなんとなくプロ野球中継に切り替えたことで野球も好きになってくれる可能性もあれば、完全に棲み分けられて相互に影響しないままに終わるかもしれない。低下する野球人気への危機感を好転させるか、ますます落ち込ませるかの大きな別れ道に直面する中、球界の放映権的に結束した動きは歓迎できるものだ。


いかに野球との出会いの入口を低くしていくかが勝負だ。「見てて面白いよね」と思ってくれる支持者を伸ばさないといけない。11球団との個別契約の積み重ねで今回の配信が可能になったため、将来にわたって永続する保証はない。しかしテレビ中継という文化がほぼ絶滅した現在、テレビに代わるツールとしてネットを最大限に活用していくことが求められる。過去の貯金でいつまでも食ってはいられないのだ。

問題の多い裁量労働制

裁量労働制という聞き慣れない言葉

政府は今国会で「働き方改革」を推進するための一連の法案を通そうとしている。史上初となる、時間外労働の上限規制や同一労働同一賃金に向けた法整備などが盛り込まれているのだ。一方で、柔軟な働き方に対応するとして「高度プロフェッショナル制度」の導入など、労組や野党を中心に長年懸念が示されてきたものについても同時に成立させることを目標にしている。


しかし、高度プロフェッショナル制度は年収1075万円以上の専門職を対象とし、複数の条件をクリアして成立するため世論の反応は乏しいのが現状だ。むしろ年収要件がなく、適応範囲が曖昧な「裁量労働制」の「企画業務型における範囲拡大」に対する不安が高まっている。対象の拡大についての可否や働く我々にとって利益がある制度なのかについて今回は考えていきたい。


労働時間は短くなるか?

結論から申し上げると私は「裁量労働制」に反対であり、これが導入されても労働時間の短縮や労働環境の向上にはつながらないと考える。そもそも裁量労働制は「労働時間に関係なく、事前に労使で定めた時間働いたとみなし、自らの裁量でもって業務にあたる時間配分や業務手段などを決めることができる」という制度である。詳しくは専門家の説明を見てもらいたい。


自分で出退勤の時間を決められるなら労働時間は短縮するだろうと思われるが、残念ながら現状、裁量労働制で働く人の方が労働時間は長い。なぜなら単純に「残業」という概念がなくなることで、経営者としてはより働かせても人件費はかからないと考え、長時間労働のための制度として悪用されがちだからだ。(制度の本意は「働かせ放題」を全く肯定していないのだが。)


また労働時間ではなく「成果」で評価する業務に適応されるのが裁量労働制であるために、成果を出そうと労働者が時に熱心に、時に追い込まれるために、長時間労働を招くというのが現状だ。法案では前述したように対象範囲の拡大を目指すものであるが、そのような労働者不利な現状の制度に当てはめることで何が起こるかは容易に想像することができるだろう。


雇用風土や制度とのねじれ

また自由に出退勤ができるという触れ込みであるが、会社から暗黙の了解として指定されることが多い。さらに上司の命令に基づいて業務を遂行していればこれは裁量ある働き方とは言えない。単に「時間外労働の管理」を緩和させるために導入することは禁じられていると理解しておかなければならない。


日本の雇用制度では「人に仕事」がつく。したがって部を横断した人事異動は当然のようにあり、営業から総務や企画から広報なんていうことも十分に考えられる。裁量労働制は「(特定の)仕事に人」がつくことを前提した仕組みだ。このねじれを解消しないまま制度を拡大すれば、成果を求めて働けば働くほど新たな仕事が課されるという悲劇が各地で起こりかねない。


人に仕事か、仕事に人か、どちらがいいかは断言できないが、意図せざる雇用のねじれは労働環境にメリットを与えるとは言えないだろう。


営業マンも裁量労働制に?

ここまでは現在の裁量労働制の不備や実態の問題点を挙げて批判した。今回話題になっているのは問題山積の制度が拡大して、営業にも適応されるのではないかということである。もちろんすべての営業が対象ではない。問題なのはどこまでが対象で、どこまでが対象ではないのか議論が進んでいないことである。


営業と言えども、新規開拓なのか既存のお客相手なのか、あるいは消費者相手なのか法人相手かでその業務内容は大きく異なる。実に概念が広いため、この区分けを厳格に定義しておかないと「君は営業だから裁量労働制ね」と言われかねない。そもそも企画業務型裁量労働制に移行するためには労使の合意の他に、対象者の同意や対象者が3~5年の経験を経ていることが前提だ。しかし企業と従業員個人の力関係から正常な合意がなされるかは不透明だ。


現行の制度検証を優先すべき

現在は営業職には裁量労働制をする資格はない。しかし、ある不動産会社は企画業務型裁量労働制の社員に営業をさせたとして労働基準監督署から指導を受けた。裁量労働制を理由に残業代を支払っていなかったことが原因である。この例から分かるように営業職にまで概念を広めることは「柔軟な働き方実現」より「人件費圧縮」に経営層の目的があることは明白だ。


せっかく時間外労働の規制をしたとしても、適応外の人間を増やしては働き方改革の意味がない。裁量労働制の意味を履き違えて迷走する状況を是正して、信用に足る制度として運用することが先決であり、それが中途半端なまま範囲拡大の議論をしても国民が不幸になるだけだ。


残業代もなく、長時間労働で、年収の低い若手、中堅社員を増やしては消費も投資も盛んにならない。青年層の活力なき国家は斜陽の途を歩むだけだ。政府を中心に「柔軟な働き方」というニーズに応えたいという声もある。しかし景気がよくなれば自然と雇用は流動化し、人手不足解消のために労働者相手に柔軟な姿勢を取らざるを得なくなる。


若者にとってのニーズは「お金とお休み」であり、これこそが国家成長への源泉であることを自覚すべきでないだろうか。

自己責任社会への疑問

奨学金を返せない若者

大学生活を送る皆さんはお金をどのように工面しているだろうか。親が学費や生活費を出してくれる家もあるだろう。しかし、必ずしも親の援助で学生生活が成立していないのが現実だ。今や学生の半数以上が奨学金という名の借金をしており、学費だけは出してもらうも、生活費や交遊費などは月6~7万円の奨学金とバイトで賄うという学生は珍しくないはずだ。


借金である以上、後に返済することが約束である。事前の説明会でも返済を厳命されたであろう。ところが社会人になってから、返済能力を持てずに行き詰まり「自己破産」する若者が増えているというのだ。ローンが困難になったり、財産没収されたりなどのペナルティは仕方ないことだが、しばしばそんな彼らは「自己責任」という言葉で非難されがちである。


使い勝手のいい「自己責任」

彼らは「借金と分かっていたのに返済できなかったのだから自分が悪い」と言われる。ごもっともという気もするが「自己責任」という言葉で済むのかとも考えてしまう。今回は奨学金制度そのものというより、この「自己責任」という言葉の持つ危うさといい加減さについて述べようと思う。


自己責任なんだから自分の判断に責任を持てと言うが、世の中そう個人の意思だけで決まるものでもない。周囲の助言や世間の風潮、見聞きした情報に流されることだってある。また突然の予期せぬ事態だって人生には起こることもある。確率の低い結果の責任までも個人に負わせるのは酷なことではないだろうか。自己責任の示す範囲が際限なく広がるのは言葉の濫用だろう。


チャレンジを奪う悪しき言葉

「自己責任だ」と言うのは簡単だがそれでは問題解決につながらない。冒頭で述べた奨学金だってそうだ。借金したお前が悪いでオシマイにするより、高校の進路指導や機構と交わした月々の借金額の妥当さにも目を向けるべきであろう。また返済不能になる可能性や伸び悩む賃金体系についても考えるべきである。そもそも学費が高いのではと問題提起することもアリだ。


したがって、自己責任という非難は、この言葉を振りかざす人が望まぬ結果を再現するだけだ。そこまで非難したいなら「自己責任」という無責任なフレーズを避けるべきだろう。他人の失敗に無慈悲な社会がこのまま続けば無難に、安全に行こうという意識だけが醸成されるに違いない。それは個人の挑戦する意欲を妨げ、困難な環境から脱却する意欲も妨げる諦念の元凶だ。


自己責任そして努力という問題

ところがそれでも非難する人はいくつかの論点より、自己責任を強調する。そこで現れるのが「努力」だ。「私も苦学生だったが返済した」だの「就職難の中でも私は返済できた」と反論するのは予想できる。しかし学費と物価の関係や経済状況を無視した過去の成功潭は参考にはならないし、問題解決のための普遍的な制度問題にレアケースを持ち出すのはナンセンスだ。


再度奨学金を例にしたが「自己責任」と「努力」の関係は密接であり、ある種の「努力神話」が残る我が国では自己責任への異議は困難が伴うだろう。努力は確かに良き気概だが可視化できない。そのため努力したかどうかは他人の恣意的な判断に委ねるしかない。さらに「努力したね」と称賛を受けるのは結果を出した人になりがちだ。だがこれは成果主義に近い。結果と努力が結び付くこともあれば、偶然や環境のよさが結果に結びつくこともある。


自己責任や努力を唱える人は多いが、そんな彼らもこれらの要素よりも、偶然や助け合い、支え合い、守り合いといった環境の恩恵に預かっているのではないだろうか。にもかかわらず他人の不幸には「自己責任」では都合がよすぎる。人生を困らないようにすることが一番だが、それでも困ってしまうことはある。その時に「自己責任」と切り捨てるか「話を聞こうか」と差しのべるか、どちらが道義ある国家として相応しい国民の態度が今一度考えてみてほしい。