水師営の別館

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俺の退職の話「退職して思うこと」

退職1か月が経過

8月3日に退職してから1か月が経ちました。退職後は国民年金国民健康保険への加入手続きと住民税の口座振替での支払い手続き、借り上げ社宅の名義変更などしなければならないことがいくつかありました。特に住居はないと困りますが、無職の人には貸せないと管理会社から告げられました。幸いにも父親がまだ働いているので父親名義で借りることにし、家賃は高くなりますがひとまず今の暮らしは維持できそうです。


有給消化をもって退職したので、直属の上司や同僚にお別れの挨拶をすることなく会社を去りました。社内的には知らずしらずのうちにいなくなったという感じですが、休職と復職を繰り返し結局上手くいかなかった奴と理解されることでしょう。実働1年半しかいなかったのですぐにみんなの記憶からは消え去るものだと思っています。退職して約1か月が経つので、退職に至るまでの経緯を振り返りたいと思います。


そもそも無理をしていた6月

5月中旬からフルタイムで働いていましたが、仕事の負荷は徐々に増え、毎日仕事をこなすことに精一杯でした。ルーチンでできる業務とは別に異動先で新たに覚えなければならない仕事があり悪戦苦闘する日々でした。要領が悪いこともあり怒られる毎日で精神的にはずいぶん負担のかかっていた状況だったと今は感じています。そして忘れもしない6月中旬の「ある業務」が私のターニングポイントだったと思います。


私がいた会社は7月に大きな人事異動があり、役職者の大きな机や椅子をセッティングしなければなりませんでした。その他、顧問室のキャビネットの交換や喫煙室の閉鎖に伴う工事など、これらを称して「レイアウト変更」を行うことになっていました。その際、当該作業の責任者を任され(押し付けられ)事前準備から当日の作業の指示出しを行う立場になりました。その当時も今も病み上がりの新人相当の人間に任せるには荷が重すぎる業務だったと思っていました。


案の定、病み上がりかつ新規業務の責任者という役回りは失敗に終わり、いくつか作業の中でミスを犯してしまいました。この時、上司からきつく怒られたのですが、責任感を持てやあなたがいずれメインで行うのだからと言われました。まだ正式な社内的な復職にもなってない人間に能力以上のことを負わせる方が間違ってるのではと内心思いましたが、ここでくじけてはならないと両親からの励ましもあり会社には通い続けました。しかしその業務経験が働く上でのトラウマになったことは否定できません。

さらなるミスと正式な復職前に感じた違和感

レイアウト変更での失敗を受け、反省点をまとめさせられそれを仕上げるのに一週間以上はかかりました。働く上でのトラウマと共に小さな自尊心も傷つけられたように思います。また上司から「仕事に優先順位をつけてやりなさい」と言われたので、その通り優先順位が低いと指示されていた社内の消毒作業を行わなかったら怒られました。やらなくてもいいとは言ってないというのが正解なようで、上司と私にミスコミュニケーションが生じていました。しかしそんな事情はお構いなくまた反省点を書かされることとなりました。


私の能力不足は否めませんが、能力以上の役割を与えたことや一方的な指示でコミュニケーション不全に陥っていたと思います。私は怒られないための方策を取るばかりになりますし、今日も怒られるのかなと不安を抱きながら会社に通っていました。そして正式な復職を前に総務部長と面談がありました。病気のことについて問われましたが、全快したことが前提のような質問でした。精神的なものなので「完治はない、寛解した状態」と答えるのが精一杯でした。あまり精神病に理解のない職場なのかなと思いました。


業務量拡大が告げられたのがダメ押しだったか

正式な復職後、総務の一員としてメンバーに加わったので新しく業務分担が割り振られました。新年会、新人歓迎会の責任者、公的アンケートの取りまとめと記入、被服関係が覚えてる限りでは新たに業務として追加されました。業務としては小さく、頻繁に行われるものではありませんが、心が折れてしまった瞬間でした。こんなに苦労してるのにそれは評価されず、批判ばかりされ、おまけに仕事は増えると三重苦の状況でした。


結果的に7月2日(金)が最後の出勤となりましたが、その日は自分を労うために初めて一人で居酒屋に行ってお酒を飲みました。意識の表層としてはこれからに向かって頑張ろうとしていたのですが、深いところでは「もう限界」と諦めのやけ酒だったのかもしれません。今覚えているのは7月5日(月)ぼんやりと行きたくないなあと思って体調不良を口実に休んだことです。その日は精神科の診察日で障害者手帳申請のための診断書を貰った日でした。


善は急げと翌日も休んで役所に行き、障害者手帳取得の申請をしました。2日休んでこれまでの緊張の糸が切れたのか、精神的に体調がずるずると悪くなり意欲減退、食欲不振が生じました。連続して休むと労働意欲が少なくなってしまうことは過去にもあったのですが、今回はそれに加え労働への恐怖も休むたびに増えていきました。毎日怒られていたことが原因なのですが職場が怖くなってしまい、体調不良と合わせ技一本で会社に通うことが不可能となってしまいました。


一度休んでしまったら立ち直れなかった

正直なところ軽い気持ちで休んでしまったら復帰するタイミングを失い、恐怖とふさぎ込む気持ちでいっぱいになりました。遅かれ早かれ会社は辞めることになると予期していましたが、7月下旬に総務部長と人事責任者との喫茶店での面談で有給消化をもって退職することを決めました。もし休まずに月曜日出勤していたらと思うこともありますが、恐らくお盆休みのタイミングで緊張の糸が切れていただろうし、それがなくとも秋の連休でダメになっていたのだろうと思っています。


「仕事で怒られることがトラウマになっていた」というのが退職の決め手だと思います。精神状態が不安定な時に継続して叱責が積み重なると辛抱強く頑張る気持ちがゼロになるということが分かりました。早期リタイアを目指すとはいえ同じ会社で長く働こうとしていたにも関わらず3年4か月で退職することになってしまいました。しかし2年近く休職していたので実働は一年とちょっとです。


母親からは「会社に行けてないことは分かっていた、私も高卒で入った会社は一年しか持たなかった」と言葉をかけてくれました。父親も「今の会社にしがみつく必要はない、辞めるのも仕方ないことだ」と言ってくれました。両親への説明と承諾を貰えたことから、7月30日(金)に人事の人に電話で退職する旨を伝え、必要書類を送付するようにお願いしました。


これからの予定

人事の人からは傷病手当金が貰えると言われたので、それを受給しながら療養と仕事探しを進めていきたいと思っています。傷病手当金は一年半貰えるので慌てず考えたいです。また失業手当も貰えるので傷病手当金が切れたらそっちに切り替えようと思います。退職は不本意とも言えますし、必然だったとも言えます。私の一年前(2018年)に休職して今年復職した先輩社員からは「見切りをつけることも大事だよ」と復帰直後に言われたことを思い出しました。


過去を悔やんだり、想像したりすることは容易ですが変えることはできません。退職に思うことは色々ありますが、これからのことを考えて前に進みたいと思います。障害者雇用で働ける場所を探して、仕事の負荷や責任が考慮された職場を見つけたいと思います。30歳になる前に仕事を見つけ、なるべく安定して両親を安心させるようにしたいです。これからが大事だと前向きに頑張ります。